網羅する俳句

【中学受験】最難関校への「俳句」講座①-俳句の歴史(俳諧から俳句へ、松尾芭蕉・正岡子規たちは何を変えたのか?)

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この「最難関校への『俳句』講座」では、中学受験における「俳句」について網羅的に学ぶための記事を書いています。

灘中や慶應中等部など、「俳句」が頻出の学校を志望する方はぜひ読んでみて下さいね!

マンガで覚える俳句・短歌
(齋藤孝)

0. はじめに。

俳句と聞くと、多くの人は、

「五・七・五」でつくる短い詩

というイメージを持つのではないでしょうか。

たしかに、現在の俳句は基本的に五・七・五の十七音で作られます。
また、季語を入れて、自然や季節の変化を表す文学だと説明されることも多いです。

しかし、俳句は最初から「俳句」という名前で、独立した短い詩として生まれたわけではありません。

俳句の背景には、「和歌」があり、「連歌」があり、さらに「俳諧連歌」があります。
その流れの中で、最初に置かれる五・七・五の句である発句が重んじられるようになり、やがて明治時代に正岡子規によって「俳句」として位置づけ直されていきました。

今回の「最難関校への『俳句』講座①」では、

・俳句がどのように生まれ、どのように発展していったのか?
・そしてその過程で代表的な俳人たちはどのような役割を果たしてきたのか?

について、すなわち「俳句の歴史」について学んでいきましょう!

第1章 俳句の出発点は「和歌(短歌)」→「連歌」

俳句の歴史をたどると、その出発点にあたるのは奈良時代にできたとされる和歌です。

和歌とは、日本で古くから詠まれてきた詩の形です。
なかでも代表的なのが、

五・七・五・七・七

の三十一音で作られる短歌です。

この五・七・五・七・七のうち、前半の、

五・七・五

上の句、後半の、

七・七

下の句といいます。

ふつう短歌は、一人で上の句から下の句までを作ります。
しかし、やがて一人で一首を完成させるのではなく、上の句と下の句を別々の人が作る遊びが生まれました。

たとえば、ある人が、

五・七・五

を詠みます。
それに対して、別の人が、

七・七

をつける。

こうして二人で一つの短歌を完成させるのです。

このような言葉のやりとりが、連歌のはじまりです。

初期の連歌は、二人で一首を完成させる形が中心でした。
これは、あとに発展する長い連歌と区別して、短連歌と呼ばれます。

平安時代の貴族社会では、和歌を詠む力が大切な教養でした。
そのため、相手の五・七・五に対して、気の利いた七・七をつけることは、知識や感性を示す遊びでもありました。

つまり連歌は、最初から難しい文学として生まれたというより、
和歌をもとにした、言葉のやりとりの遊びとして始まったのです。

やがて、この遊びは二句だけでは終わらなくなります。

最初の人が、

五・七・五

を詠む。
次の人が、

七・七

をつける。
さらに別の人が、

五・七・五

をつける。
また次の人が、

七・七

をつける。

このように、五・七・五と七・七を交互に、どんどんつなげていく形式へと発展していきました。

これを長連歌といいます。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、この長連歌はしだいに本格的な文芸として整っていきます。
さらに鎌倉時代後期から室町時代にかけて、百句をつなげる百韻などの形式も発展していきました。

こうして連歌は、単なる言葉遊びから、複数人で一つの世界を作り上げる文学へと成長していったのです。

そして、この連歌の最初に置かれる五・七・五の句を、発句といいます。

発句は、連歌全体の出発点になる大切な句でした。
その場の雰囲気を作り、季節を示し、これから続く句の流れを開く役割を持っていました。

ただし、ここで注意したいことがあります。

この時点で、まだ現在の意味での「俳句」が生まれたわけではありません。

ここで生まれたのは、あくまで、

後の俳句につながる五・七・五の形
そして、連歌の出発点となる発句という役割

でした。

つまり、第1章で押さえるべきことは、
俳句の五・七・五という形の源流は、和歌と連歌にあるということです。

俳句は、何もないところから突然生まれた文学ではありません。
和歌の五・七・五・七・七という形があり、その前半である五・七・五が、連歌の中で発句として重要な役割を持つようになった。

これが、俳句へ向かう最初の大きな流れです。

しかし、俳句の直接の母体となるのは、格式ある連歌そのものではありません。

連歌は発展するにつれて、しだいに作法や決まりごとが整い、貴族や武士、僧侶、知識人たちの間で重んじられる、格式の高い文芸になっていきました。

その一方で、人々の間には、もっと自由に、もっと面白く、日常の言葉や笑いを交えて句をつなげたいという気分も生まれていきます。

こうして、正式な連歌とは少し違う、こっけいで庶民的な文芸が現れます。

それが、次に見る俳諧連歌です。

マンガで覚える俳句・短歌
(齋藤孝)


第2章 俳諧連歌――俳句の直接の母体となった文芸

第1章で見たように、俳句の五・七・五という形は、和歌や連歌の流れの中で育ってきました。

しかし、現在の俳句に直接つながっていくのは、格式ある連歌そのものではありません。

その連歌から生まれた、より自由で、こっけいで、庶民的な文芸。

それが、俳諧連歌です。

「俳諧」とは、もともとおかしみこっけいさを含む言葉です。

連歌が、上品でまじめな文芸として発展したのに対して、俳諧連歌は、もっと日常的で、笑いのある、くだけた表現を取り入れていきました。

格式ある連歌では、優美な自然や古典的な世界が重んじられました。

一方、俳諧連歌では、町の暮らし、食べ物、庶民の会話、失敗や笑い、しゃれ、言葉遊びなども題材になります。

ここに、のちの俳句につながる大切な特徴があります。

俳句は、ただ美しい自然だけを詠む文学ではありません。
人間の暮らし、季節の中の小さな変化、ふとしたおかしみ、弱さ、寂しさ、喜びも詠む文学です。

その土台を作ったのが、俳諧連歌でした。

俳諧連歌も、基本的な形は連歌と同じです。

最初に、

五・七・五

の句を置きます。

それに、

七・七

をつけます。

さらに、

五・七・五

をつけ、また、

七・七

をつける。

このように、複数の人が句をつなげていきます。

そして、この最初の五・七・五も、連歌と同じように発句と呼ばれました。

発句は、俳諧連歌全体の入り口になる句です。
その場の季節を示し、雰囲気を作り、次の句へ流れを開く役割を持っていました。

やがて、この発句は、俳諧連歌の中でも特に重視されるようになります。

なぜなら、発句は連句全体の始まりであり、その場の印象を決める大切な一句だったからです。
最初の一句がよければ、そのあとの句の流れも生まれやすくなります。

そのため発句には、季節感や場の空気、作者の感性が強く求められました。

ここで大切なのは、俳句の直接の母体は、この俳諧連歌の発句だということです。

第1章で見た連歌の発句は、五・七・五という形の源流を考えるうえで重要です。
しかし、現在の俳句につながる直接の流れは、より自由で庶民的な俳諧連歌の発句にあります。

整理すると、こうなります。

和歌から、五・七・五・七・七の形が生まれた。
その上の句と下の句を分けて作る遊びから、連歌が生まれた。
連歌の最初の五・七・五は、発句として重んじられた。
その連歌から、より自由でこっけいな俳諧連歌が生まれた。
俳諧連歌の発句が、のちの俳句の直接の母体になった。

ただし、この時点でも、まだ「俳句」という名前の独立した文学ジャンルが完全に成立したわけではありません。

江戸時代までの中心的な呼び名は、あくまで俳諧発句でした。

私たちは現在、松尾芭蕉や与謝蕪村、小林一茶の作品を「俳句」と呼びます。
しかし、歴史的に見れば、彼らは「俳句」という近代的なジャンルの作家というより、俳諧の発句を高めた人々と考えた方が正確です。

では、その俳諧の発句を、ただの言葉遊びではなく、深い自然観や人生観を表す芸術へと高めた人物は誰だったのでしょうか。

それが、江戸時代に登場した松尾芭蕉です。

マンガで覚える俳句・短歌
(齋藤孝)


第3章 松尾芭蕉――俳諧を芸術に高めた人

俳句の歴史を語るうえで、最も重要な人物の一人が松尾芭蕉です。

ただし、ここでも言葉に注意が必要です。

芭蕉は現代ではよく「俳句の大成者」と呼ばれます。
しかし、芭蕉が生きていた江戸時代には、現在のような意味での「俳句」という呼び名はまだ一般的ではありませんでした。

芭蕉が取り組んでいたのは、正確には俳諧です。
そして、その中でも特に発句を、深い芸術の域にまで高めました。

芭蕉以前の俳諧には、しゃれや言葉遊び、こっけいさを楽しむ面が強くありました。
もちろん、それも俳諧の大切な魅力です。

しかし芭蕉は、そこに深い自然観や人生観を加えました。

有名な句に、次のものがあります。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

一見すると、ただ「蛙が池に飛びこんだ」というだけの句です。
しかし、静かな古池、蛙の動き、そして水の音によって、静けさと一瞬の変化が見事に表されています。

この句には、大げさな説明はありません。
けれども、読んだ人の心には、静かな池の情景と、そこに響く水音がはっきりと残ります。

芭蕉は、俳諧を単なる言葉遊びではなく、
自然・旅・孤独・無常・人生の深みを表す文学へと高めました。

また、芭蕉の大きな特徴は、旅と俳諧を結びつけたことです。

代表作『おくのほそ道』では、旅の記録と発句が一体となっています。
そこには、土地の風景、歴史への思い、人との出会い、人生のはかなさが重ねられています。

芭蕉にとって、俳諧はただ机の上で作る言葉遊びではありませんでした。
旅をし、自然を見つめ、人の世の移ろいを感じながら詠むものだったのです。

芭蕉の役割を一言でいえば、

俳諧を、深い精神性をもつ芸術に高めた人

です。

後の時代に、発句が「俳句」として独立した文学と見なされるようになるためには、芭蕉の存在が非常に大きかったと言えます。

芭蕉によって、俳諧の発句は、ただの遊びではなく、人生や自然を深く表現できる短い文学としての力を示したのです。

眠れないほどおもしろい おくのほそ道


第4章 与謝蕪村――俳句に絵画的な美しさを与えた人

芭蕉のあとに重要な俳人として、与謝蕪村がいます。

蕪村は、俳人であると同時に画家でもありました。
そのため、彼の句には、まるで一枚の絵を見るような美しさがあります。

代表的な句に、次のものがあります。

春の海 ひねもすのたり のたりかな

「ひねもす」とは、一日中という意味です。
「のたりのたり」は、ゆったりと動く様子を表します。

この句を読むと、春の海が一日中ゆったりと波打っている様子が、目の前に浮かんでくるようです。

蕪村の句には、色、光、空間、動きが感じられます。
それは、まるで言葉で風景画を描いているようです。

芭蕉の句が、自然の中に人生の深みや無常を見つめるものだとすれば、蕪村の句は、目の前の情景を美しく切り取る力に優れています。

もちろん、蕪村の句にも感情や深みはあります。
しかし、その魅力はまず、読んだ瞬間に情景が見えるところにあります。

蕪村の役割は、

俳諧の発句に、視覚的・絵画的な美しさを加えた人

です。

のちに俳句と呼ばれる五・七・五の短詩は、蕪村によって、まるで小さな絵画のような表現力を持つようになりました。

与謝蕪村 『ぎこちない』を芸術にした画家


第5章 小林一茶――庶民や弱いものへのまなざしを深めた人

次に重要なのが、小林一茶です。

一茶の句には、庶民の生活感や、小さな生き物への温かいまなざしがあります。

有名な句に、次のものがあります。

やせ蛙 負けるな一茶 これにあり

小さく弱そうな蛙を応援しながら、そこに自分自身の姿も重ねています。

一茶の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
だからこそ、弱いもの、小さいもの、踏まれそうなものに対する共感が、句の中に深く表れています。

また、次の句も有名です。

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る

小さな雀の子に向けた、やさしくユーモラスなまなざしが感じられます。

一茶は、芭蕉や蕪村に比べると、より生活に近い俳人です。

立派な景色や深遠な思想だけでなく、日常の中の小さな命、庶民の感情、貧しさ、寂しさ、そして思わず笑ってしまうような人間らしさを句にしました。

ここには、俳諧連歌がもともと持っていた庶民性や日常性が、より深く表れています。

一茶の役割は、

俳諧の発句に、庶民の感情、弱いものへの優しさ、生活感を深く刻んだ人

です。

芭蕉が俳諧に精神性を与え、蕪村が絵画的な美しさを与えたとすれば、一茶はそこに人間の暮らしと温かさを加えました。

小林一茶 名句百選


第6章 正岡子規――発句を「俳句」として独立させた人

明治時代になると、俳句の歴史は大きな転換点を迎えます。

その中心人物が、正岡子規です。

ここで、ようやく現在の意味での「俳句」という言葉が重要になってきます。

江戸時代まで、芭蕉・蕪村・一茶たちが作っていた五・七・五の句は、基本的には俳諧の発句という文脈にありました。

もちろん、現代ではそれらをまとめて「俳句」と呼びます。
しかし、歴史の流れとしては、発句がそのまま最初から「俳句」だったわけではありません。

正岡子規は、この発句を、連句の一部分ではなく、独立した短詩として位置づけ直しました。

そして、「俳句」という呼び名を積極的に用い、近代文学の一ジャンルとして押し出していったのです。

ここが非常に大切です。

「発句」という言葉には、もともと「連句の最初の句」という意味があります。
つまり、発句はあくまで連句全体の一部です。

しかし子規は、五・七・五の短い詩を、それだけで一つの独立した文学作品として考えました。

そこで、従来の「発句」ではなく、**「俳句」**という呼び名が重要になったのです。

子規が重視したのは、写生でした。

写生とは、目の前のものをよく観察し、ありのままに描くことです。
絵を描くときに風景や人物をよく見るように、俳句でも現実をしっかり見ることが大切だと考えました。

子規は、昔ながらの言葉遊びや型に頼るだけではなく、現実を観察し、自分の目で見たものを表現することを求めました。

これによって、俳句は近代文学として再出発します。

正岡子規の役割は、

俳諧の発句を、独立した近代文学としての「俳句」に再定義した人

です。

つまり、俳句の歴史を整理すると、こうなります。

和歌から五・七・五の形が生まれた。
連歌の中で、五・七・五は発句として重んじられた。
俳諧連歌の発句が、のちの俳句の直接の母体になった。
そして明治時代、正岡子規によって、それが「俳句」として独立した文学に位置づけ直された。

この流れを押さえると、「俳句はいつ生まれたのか」という疑問も整理しやすくなります。

形式の源流は、和歌や連歌にあります。
直接の母体は、俳諧連歌の発句です。
そして、現在の意味での「俳句」として成立したのは、明治時代の正岡子規以後だと考えると分かりやすいです。


第7章 高浜虚子――季語と花鳥諷詠を重んじた人

正岡子規の流れを受け継いだ俳人に、高浜虚子がいます。

虚子は、俳句において季語を大切にしました。

季語とは、季節を表す言葉です。
たとえば、春なら「桜」、夏なら「蝉」、秋なら「月」、冬なら「雪」などが季語になります。

俳句は短い文学です。
そのため、たった一つの季語が入るだけで、句の中に季節や情景が一気に広がります。

虚子は、自然や季節の移り変わりを詠むことを重視しました。

彼が唱えた考え方に、花鳥諷詠があります。

花鳥諷詠とは、自然や季節の姿を通して、人間の感情や世界のあり方を詠む考え方です。

虚子は、俳句があまり理屈っぽくなりすぎることを避け、自然や季節をしっかり見つめることを大切にしました。

虚子の役割は、

季語を中心とする伝統的な俳句の形を守り、広めた人

です。

現在でも「俳句には季語がある」という考え方が広く残っているのは、虚子の影響がとても大きいと言えます。


第8章 河東碧梧桐――自由な俳句を目指した人

一方で、正岡子規の弟子たちの中には、より自由な俳句を求める人もいました。

その代表が、河東碧梧桐です。

碧梧桐は、五・七・五や季語にとらわれすぎる必要はないと考えました。
俳句はもっと自由に、現代の感覚で表現してよいのではないかと考えたのです。

これは、伝統的な俳句を守ろうとする高浜虚子とは対照的な方向でした。

虚子が「季語や定型を大切にする俳句」を重んじたのに対し、碧梧桐は「より自由な表現としての俳句」を目指しました。

碧梧桐の役割は、

俳句を伝統の枠から解放し、自由な表現へ向かわせた人

です。

この流れは、のちの自由律俳句にもつながっていきます。

俳句の歴史は、伝統を守るだけの歴史ではありません。
同時に、短い詩の可能性を広げようとする挑戦の歴史でもあったのです。


第9章 種田山頭火・尾崎放哉――自由律俳句を深めた人たち

五・七・五の定型や季語に必ずしもこだわらない俳句を、自由律俳句といいます。

自由律俳句で有名なのが、種田山頭火尾崎放哉です。

山頭火の有名な句に、次のものがあります。

分け入っても分け入っても青い山

五・七・五ではありません。
しかし、旅をしながら山の中へ進んでいく感覚、自然の大きさ、人間の孤独が伝わってきます。

尾崎放哉には、次の句があります。

咳をしても一人

非常に短い句ですが、孤独感が強く伝わります。

山頭火や放哉の句には、飾り立てた表現よりも、生きている人間の声そのもののような力があります。

定型を外すことで、かえって心の声がそのまま出てくるような表現になっているのです。

彼らの役割は、

俳句を定型から解き放ち、孤独や内面を直接表現した人たち

です。

もちろん、自由律俳句だけが俳句の正解というわけではありません。
しかし、俳句という文学が、五・七・五や季語を大切にする方向だけでなく、人間の内面を自由に表す方向にも広がっていったことは、とても重要です。


第10章 現代俳句――伝統と自由の両方へ

現代の俳句には、大きく分けると二つの流れがあります。

一つは、五・七・五や季語を大切にする伝統的な俳句です。
もう一つは、定型や季語にこだわりすぎず、現代の感覚を表そうとする俳句です。

現代俳句では、自然や季節だけでなく、都市生活、戦争、家族、学校、科学技術、インターネット、社会問題なども題材になります。

つまり俳句は、昔の自然だけを詠むものではありません。

もちろん、季語や五・七・五を守る俳句には、長い伝統に支えられた美しさがあります。

一方で、現代の生活や個人の感情を、新しい言葉で表そうとする俳句にも、今を生きる文学としての魅力があります。

俳句は、短いからこそ、時代の変化をすばやく映し出すことができます。

たった十七音、あるいはそれに近い短い言葉の中に、今この瞬間の世界の見え方を閉じ込める。

それが、現代俳句の面白さです。


俳句の発展を年表風に整理する

最後に、俳句の発展を簡単に整理してみましょう。

時代・人物果たした役割
和歌五・七・五・七・七の形を持つ、日本の古い詩の土台
短連歌上の句と下の句を別々の人が作る言葉遊び
長連歌五・七・五と七・七を交互につなげる文芸
発句連歌・俳諧連歌の最初に置かれる五・七・五
俳諧連歌こっけいさ、庶民感覚、日常性を加えた文芸
松尾芭蕉俳諧を深い精神性をもつ芸術に高めた
与謝蕪村発句に絵画的・視覚的な美しさを与えた
小林一茶庶民性、生活感、弱いものへの優しさを深めた
正岡子規発句を「俳句」として近代文学に再定義した
高浜虚子季語と花鳥諷詠を重んじ、伝統俳句を広めた
河東碧梧桐定型や季語にとらわれない自由な表現を求めた
種田山頭火・尾崎放哉自由律俳句によって孤独や内面を表現した
現代俳句伝統と自由の両方を受け継ぎ、多様化している

まとめ 俳句はどのように生まれ、発展したのか

俳句は、最初から「俳句」という名前で生まれたわけではありません。

その源流には、まず和歌があります。
和歌の五・七・五・七・七という形のうち、前半の五・七・五が、連歌の中で重要な役割を持つようになりました。

連歌では、最初の五・七・五を発句と呼びました。

やがて連歌が格式ある文芸として発展する一方で、もっと自由で、こっけいで、庶民的な俳諧連歌が生まれます。

そして、この俳諧連歌の発句こそが、現在の俳句の直接の母体になりました。

江戸時代には、松尾芭蕉が俳諧を深い芸術に高めました。
与謝蕪村は、発句に絵画的な美しさを与えました。
小林一茶は、庶民や弱いものへの温かいまなざしを句に刻みました。

しかし、この時代にはまだ、現在の意味での「俳句」というジャンル名が完全に成立していたわけではありません。

明治時代になり、正岡子規が俳諧の発句を、独立した近代文学として位置づけ直しました。
そして、「俳句」という呼び名を定着させていきました。

その後、高浜虚子は季語や花鳥諷詠を重んじる伝統的な俳句を広め、河東碧梧桐、種田山頭火、尾崎放哉たちは、より自由な俳句の可能性を切り開いていきました。

つまり俳句の歴史は、

和歌から五・七・五の形が生まれ、
連歌の中で発句が重んじられ、
俳諧連歌の発句が直接の母体となり、
正岡子規によって俳句として独立し、
その後、伝統と自由の両方向へ発展していった歴史

だと言えます。

俳句とは、五・七・五という小さな器の中に、自然、人生、孤独、喜び、悲しみ、時代の空気を入れてきた日本文学です。

短いからこそ、深い。
少ない言葉だからこそ、読み手の想像が広がる。

そこに、俳句という文学の大きな魅力があるのです。

マンガで覚える俳句・短歌
(齋藤孝)